“打つ”理由とは

夢追いの哀唄  ~さとまる様に捧げるエレジー~

少年時代、誰もが雨上がりの七色に輝く虹空を追いかけた。掴もうとしても掴めない事は、子供ながらにしても知ってはいたが、どこまでも追いかけた・・・。博徒の真髄は、まさにそこにあるのだと僕は思う。誰もが少年から、大人になって行く過程で、打算が、勝手に身に付いて行くのであろう。大きな夢を抱いても己の分を自らで悟ってしまわなくちゃ、生きていけない現実社会が、そこにあるからだ。これを、諦めと言うのなら、僕もそうだし、大多数の人間が、そう言う事になるだろう。

子供時代、駄菓子屋などで、当て物、クジ引きの、あのドキドキ感・・・大人になっても、その子供心が強烈にある、夢追い人・・・博打打の素敵な脳内回路ではないだろうか。勝負をすると言うその強烈すぎる、スリルが人の程を狂わしてしまうのもまた、現実にあるだろう。だけど、日常生活で、また社会的労働で、勝負出来ている人もその程を狂わしてしまっている事もあるのだ。つまりは、全てが人間本来持ってした、我欲の問題だと僕は解釈する。勝負に負けても、負けてもまだ、勝負を挑むと言う事からすれば、まさしく漢、男の生き様がそこに垣間見る事が出来るのである。僕自身は、博打をしないが、それは嫌いなのではなく、出来ないと言う方が適切である。出来ないと言うのも、自分自身の打算からくる損得勘定でしかないのである。そう、夢を追えない普通の大人になってしまったのだ。人はすぐに、どちらが良いとかを、口にしていまうけど、どちらでも良いのだと僕は信じている。口に出してはいけない事もあるのだ。僕の親父が見た夢の意味が最近ちょっと、解ってきたような気がする。仕事を出来ない(しない)男の、哀しすぎる唯一のロマン・・・一攫千金を夢見ても達成しない、巨大な相手と諦めないで、勝負をしていたのである。僕が、幼少の頃、アイスキャンディーで、当たりが出た時と、全く同じ顔なのである・・・そう、競輪車券を当てた時の顔が・・・満面の笑顔・・・得意げな顔・・・そこに、打算は、皆無であった感じを思い出す。

さとまる様が、そこに見る夢がどのような物かは、僕には解りませんが、きっと七色に輝く、虹空を夢見ているのでは、ないでしょうか?掴めない事と、知りながら、掴もうとする、その姿が、素敵であり、男としての無骨すぎる、生き様ではないでしょうか?勝ち続ける事が不可能だと知りながら、夢を追う・・・そんな貴方の人間臭い心情が、羨ましくもあり、また、大好きです。

哀しい唄・・・哀唄・・・そんな意味を知ろうとする事が、無意味・・・無意味な事に一生懸命になれたのが、少年時代である。無意味(子供心)な勝負に挑み続ける貴方は今、あのときの虹空のように、光輝いているのである。


ネッ友のよしおさんから、とある投稿掲示板にメッセージを頂きました。
“なぜ打つのか”あらためて考えさせられましたが、明解な答えは自分もよくわからんです。

ひとつ言えるのは、
人間失格にならずに打つ人と、人間失格まで打つ人がいて、僕はどちらかというと後者の部類ですね。

そしてよしおさんは、“よしおさんの父上”と僕を同調されてるようで、それはかなり当たってるのかもしれない。

哀しいかな、競輪を打つのは“生きてる理由”なりつつある。
では他に理由があれば打たないのか・・・・・・。
それはよくわからんけども、“博打じゃない部分の競輪”が好きなのも事実で。

さてみなさん、よしおさんが“ネット上”で日々何をされてるかは、よしおさんの文章からは全く想像つかないと思いますが、それは言えないし、絶対わからんです(笑)。
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by satomarumakoto | 2007-02-10 08:13
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